キリスト教の話

こういう話はあまりしたくないのでこの記事こっきりにしようと思うが、少しキリスト教、というか、クリスチャンについて考えることがあったので、いい機会として書かせていただこう。


私はクリスチャンだ。

ゲイなのに?とか言われそうだが。
そう、ゲイなのにクリスチャンだ。プロテスタントの。洗礼も受けているぞ。

ただ事情はちーとばかり特殊で、私は教会には行っていない。周りのクリスチャンとうまくやっていけないのだ。
集会にも来ない。
礼拝にも来ない。
来ないから献金も奉仕もしない。
クリスマス会やキャンプファイアなどの定期イベントに誘っても、来ない。
一般的に見れば私は不良クリスチャンである。


「教会行ってないのにクリスチャンって言えるの?自称?ファッションクリスチャン?」

そうでもない。
信仰はまだあるから。
私はまだ神とイエスキリストを己から遠ざけてはいない。
念のため言っておくと、クリスチャンとは『教会に行く人』ではなく、『イエスキリストを救い主として信じる人』だ。私は教会こそ行っていないが、イエスキリストを救い主として信じている。それは確かだ。

もちろん、キリスト教が根本的に間違っている(教義そのものに致命的な矛盾がある)ただのカルト教団と分かったような場合、信仰は捨てるが。
盲信はしていないよ。ということ。



クリスチャンは概ねゲイに否定的だ。
否定とまではいかなくとも、同性愛の話題に触れたがらない。
海外だとクリスチャンが同性愛に向ける目はさらに冷たくなる。ま、ここは日本なので海外の話はしないけど、クリスチャンとは概してそういうものだ。という話だ。

確かに、聖書にはソドムとゴモラという同性愛で不品行な街が滅ぼされる記述もあるし(創世記19章)
新約聖書でもパウロが「男同士で恥ずべきことをする(ローマ人への手紙1章)」と言っているので、キリスト教は同性愛を禁じているようにも見える。


けれども私は問いたい。

いつまでも残るのは信仰と希望と愛ではなかったか。
そしてその中で最も優れているのは愛ではなかったか。(コリント人への手紙Ⅰ13章)と。


ゲイには愛がないとでも言うのだろうか。
そんなことは絶対にない。
私が情欲だけでツレと10年以上付き合っているとでも?いまだに夜の営みなんてないよ。プラトニックだよ。
私はツレを愛しているし、尊敬もしている。
ツレに代わる相手はもうこの世には存在しないだろう。
ここまで愛せる間柄は、友人関係や親子関係とは一線を画するものだ。


では、どうだろう。
ゲイの愛は『最も優れたもの』と言われた愛ではないのだろうか。
ゲイの愛は、キリスト教において価値のないものなのであろうか。
もしそう言うのならばぜひとも聖書を引用して反論して欲しいところだが、それができるクリスチャンにはまだ会ったことがない。


ゲイは病気ではないので、薬で治すことができない。多分一生ゲイのままだ。
では、そんな「治らない」同性愛者はクリスチャンになってはならないのだろうか?
同性愛者は救う価値がないと、神が仰せになっていると言いたいのだろうか?

それならそうでもいい。
私はキリスト教から身を引こう。
そこに救いはないのだから。

しかし、聖書は(私の知る限り)必ずしもはっきりと同性愛を否定しているわけではない。
ソドムとゴモラは同性愛以上に不品行が原因で滅ぼされたようなものだし、パウロとて言及しているのは神殿男娼と遊ぶ男の在り方だ。つまりは不品行についてアカンと言っているのである。


ゲイを否定するクリスチャンにはこのへんを論破していただきたいものだが、どうにも「なんとなく同性愛はだめだよね」という方が多くて困る。
なんとなく、ではこちらも反論のしようがない。
「『あなたは』そういうお考えなんですね」としか言いようがない。それは最早キリスト教の話ではないだろう。


とまあそんなことがあって、教会には「なんとなくクリスチャン」が多いなと思ったのだ。
同性愛に限らず、他の問題についてもあまり深く考えてないし、聖書も読み込んでいない。
そのくせ奉仕や献金には血相変えて「神様の恵み!!神様のために!!」と、こちらまで巻き込んで飛び付く。多分私のことは体のいいボランティア労働力としか思っていないだろう。

私としてはきちんと聖書と現代の問題について論議できないフラストレーションと、カルトチックな奉仕勧誘への嫌悪感から、結局教会からは離れてしまった。
地元にいた頃も、大学で京都に出た時も、ツレと暮らしている今も、どの教会でもそうだった。
だから多分、私はもう教会には行かないだろう。
聖書とキリスト教関係の書籍が私の学舎だ。



ま、一般的に見れば私は不信仰で道を外しそうな不良クリスチャンだ。
教会でゲイということは一度も言っていない。
当たり前だ。言いたくもない。
先述したような「なんとなく同性愛はだめだよね」的な、あのうんざりするやりとりをさせられるのはごめんだ。話になるなら話をするが、感情論と主観で話されることが目に見えている。
クリスチャンならクリスチャンらしく、聖書の話をしてほしいものだ。



ああそれと、無駄な追撃を入れておこう。
仮に同性愛が聖書の示すところの罪であったとしても、だ。

「裁いてはなりません。裁かれないためです(マタイ7章)」
クリスチャンであれば凡そ知っているであろう、超有名な『山上の説教』の一部だ。

裁くってなんだろうか?
それは人を罪に定めるということだ。
同性愛を裁く方々は、そんなに偉いのだろうか。
自身に罪がないのだろうか?
己の目には梁がないのだろうか?

彼らは7を70倍するまで人を赦しているのか?
右の頬を打つものに左の頬をも向けているのか?
これらはイエスキリスト自らが「こうせよ」と言ったものだ。だから「旧約聖書の細かい罪の規定はイエスキリストによって新たな契約へと書き換えられたから、守れなくてもいい」とは言わせない。

これを以て私は「お前も罪人だろう、だから同性愛も仕方ないことなんだ、多目に見ろ」と言いたいのではない。
……いや、そういう響きに聞こえるかなと思って。言い方が。
そうじゃないのだ。仮に同性愛が罪でも、人を赦せないのが罪でも、それを断じる権限はそもそも人にはないということだ。
人同士で「罪」という言葉を使っていいのは刑事事件になった時くらいで、キリスト教における「罪」の概念を持ち出すのは筋違いである。
どうしても人を諌める必要があるとき、クリスチャンがかける言葉は、「あなたは神の前に罪を犯した!」ではなく、「それは社会規範上問題だ」という切り口にしかならないのではないだろうか。


同性愛が罪ならば、それをお示しになれるのは神だけだ。
人が鬼の首を取ったかのように、「お前の行為は罪だ」と他人に押し付けるものではない。



──そもそも私は同性愛が罪だとは思わないがな。
一人の人を愛することに、同性か異性かで違いがあるのかい?
そして同性愛が罪ならば、なぜ善なる聖なる神は私を「罪である」はずのゲイに作りたもうたのか?
神御自ら人に罪を付与し、その罪を購うなどと、そんなマッチポンプをされるのがキリスト教なのか?

私は違うと信じるぞ。