キリスト教の話2

キリスト教に関する記事はあれこっきりにしようと思っていたが、私が教会に行かなくなった理由の1つを思い出したので。

少し愚痴ります。
実はまだけっこうたまってる。


1つ。
とある牧師の個人伝道。

1つ。
ユダヤ人の救いについての母の答え。

かなりボリューミーになるとは思うので、読み流していただいて構わない。私が吐き出したいだけだから。



【とある牧師の個人伝道】
簡単に言おう。
牧師に、ツレの個人伝道を、途中で断られたのだ。

その理由は

「彼からは、救いを、神を求める姿勢が感じられない。このまま学びをしていても、意味がないと思う」

というものだった。


なるほどな。
確かにツレは仏壇があって神棚があって、七五三に行ったり初詣に出掛けたりする日本の標準家庭で育った。そのうえ、哲学に興味があるわけでもなく、人生や死後についてどーのこーの考えたことはない。
いわゆる「普通の日本人」だ。
キリスト教に興味がないのはもちろん、神だの救いだのと言われても引いてしまう「普通の日本人」だ。

そんなツレに私が個人伝道を受けるよう頼み込んだのは、ツレと一生を共にしていきたかったからだ。
聖書から学べることは多い。
それは結婚についてもしかりだ。
我々は結婚とは違うけれども、一生番うことに関しては結婚と何ら変わりはないと思う。愛し合い、時にいがみ合う。しかし最終的には愛で固く結ばれる、結婚。その制度を作ったのは、神だ。アダムとエバ(イブ)の結婚がそれだ。
そして、結婚には愛が欠かせない。
相手を思う愛がなければ、結婚生活での困難は乗り越えられないだろう。私自身、何度もツレの愛に助けられてきた。死を考えるほど酷く落ち込んだ時のツレの慰めは、何より心に沁みた記憶がある。同様に、私もツレを愛し支えなければ、ツレはきっと潰れてしまう。
その愛する具体的な手法(言葉で感謝を伝える、相手の痛みを分かち合う等)を、聖書に基づいて学ぶことは可能なのだ。プリマリタルカウンセリングに近い書籍を読んで、そう気付かされた。
ツレにクリスチャンになってもらうことは叶わずとも、せめて愛について学ぶことは、有益なことではないかと思った。お互いのために。何より私はツレと共に愛を学びたかった。

だから私は、牧師にツレの個人伝道をお願いしたのだ。もちろんゲイだとか恋人だとかいう話はせずに、「結婚を控えた大切な友人だから、ぜひ結婚に絡めて伝道をしてほしい」と伝えた。
ツレも、はじめは「俺、あんまりキリスト教に興味が持てないんだけど……」と言いつつも、私のために聖書を知ろうとしてくれたのだ。それは本当にツレの愛ゆえの行動だし、私はその日何度神に感謝の祈りを捧げたか知れない。

そして、私とツレと牧師の3人で二回ほど聖書の学びをした、その翌日の礼拝のことだった。
牧師に、先の言葉を言われたのは。


教えてほしい。
伝道とは、誰に対してするものなのだ?
仏壇もあれば神棚もある、聖書に触れたことなんか皆無に等しい「普通の日本人」に対してするものではないのか?
「普通の日本人」の大多数が聖書に興味がないのは当たり前だ。だが牧師は、そういう人間に宣教をしても無駄と言う。してみると、牧師は、『何かの拍子にキリスト教を知って、神を知りたいと思い教会を訪ねた』という「稀有な日本人」しか、伝道の相手をしないということか?

パウロは誰に宣教をしたのだ?
既にある教会に行って、既に神を信じたクリスチャンに対して宣教をしたのか?
今の宣教スタイルは、一体聖書中の誰に習ったものなのか。


恐らくであるが、あの牧師には伝道する気も、能力も無かったのだ。
伝道マニュアルに従って回数をこなし、洗礼を受けさせられればそれで良かったのだ。
これから結婚し、どこかに行ってしまうような「骨が折れる割には自分の栄光にならない」ツレのような存在には興味すらわかなかったのだろう。だから早々に匙を投げた。あたかも神に興味がないツレが悪いかのような言い回しでだ。

何度でも言うが、「普通の日本人」が神だの救いだのに興味がないのは当たり前だ。しかもキリスト教はクリスマス以外殆ど社会に定着していない。生活基盤とはなっていないのだ。
そんな人々に神を伝えるのが、日本の伝道だ。もとより困難なのは目に見えているのだ。

私はまともに伝道をしたことはないが(己の無知が他人をキリスト教から遠ざけてしまうのが怖い)、それでもキリスト教の話をするときには、相手の興味に合わせて聖書の言葉を絡めていく。
何に喜びを感じ、何に不安を感じ、何に関心があるのか。そのなかで、聖書との繋がりを見いだせば、その話をする。
ただ、私は神学校を出たわけではないし、聖書に関する知識量としては牧師が圧倒的に勝っているはずだから、牧師に頼んだのだ。


マニュアル通りの聖書の学びしかしたことがない者に、「相手に合わせて聖書の話をしていく」ことができるわけがなかったのだ。



それだけでも「この牧師はダメだ」と心底呆れたが、それでも教会から離れることまではしなかったろう。
礼拝のメッセージまで否定する気はなかったし。

けれども、ツレへの扱いが許せなかった。
私の大切なツレへの粗雑な扱いが、どうしても許せなかったのだ。
もう二度とツレを教会に関わらせてはならないと思った。あんな場所にツレを付き合わせていては、ツレに迷惑がかかる。


自分の愛する我が子に対しても、あんな紋切り型の伝道スタイルで接しているのだろうか?
だとすればツレを牧師に託したのは完全なる私の判断ミスだ。よく観察しておくべきだった。ツレには本当に申し訳ないことをしたと思っている。


ついでに話題に触れておくが、
その牧師も言っていた、クリスチャンが大好きな言葉がある。

「クリスチャンはクリスチャン同士結婚しないと、根本的な価値観(神中心か世的か)が分かりあえなくて苦しむことになる」

私はこの考え方が大嫌いだ。
なぜなら、私がクリスチャンと根本的な価値観を共有できたことなんて殆どないからだ。
私の両親は父母共にクリスチャンだが、家でキリスト教の話をしているのを聞いたことがない。食事の祈りと、教会での役割(伝道部とか、教育部とか)についての話だけだ。これのどこが「根本的な価値観の共有」なのか教えてほしい。ただ単に日曜日に教会へ行くという、言ってみればゲートボール仲間のご老人たちと同じだ。果たしてご老人たちが「根本的な価値観を共有」していると言えるのか?単純に趣味が合う仲間というだけではないか。

クリスチャンはクリスチャンとしか釣り合わない、というような、どこか貴族様的な発想を感じる。
ならば私も言わせてもらう。
「私と同じかそれ以上のレベルで聖書の話ができない、または私の質問及び反論に三回以上応答できないようなクリスチャンは、私とは分かり合えず苦しむことになるから話しかけてくるな」と。
向こうがご貴族様なら、私も同じように対応してやろうではないか。


それと、クリスチャンでない人と結婚した方が「私は夫がクリスチャンではないのでこんなに苦労をした」と(若干悦に入りながら)語りだすのを聞くが、
それは多分「クリスチャンではない故の苦労」ではないと思う。どちらに要因があるにせよ、人間性の問題だと思う。
私は「クリスチャン同士でなければうまくいかない、自分がそうだった」という意見は認めない。
私とツレとて別の人格だから、人としてぶつかり合うことはあるが、それはクリスチャンかどうかは関係ない。

そして、我々はクリスチャン同士でなくてもうまくいっている事例の1つだ。
それを無視されては困る。


愛し合うことに、クリスチャンもクリスチャンでない人も関係ないはずだ。
私はツレと10年以上歩んできたが、ツレがクリスチャンではないからといって苦しんだことはない。
「もっと聖書のことを語りたいなぁ」と思うことはあっても、それは不勉強なクリスチャンに対しても同じ事を思うので一緒だ。
というか、ツレは大変頭のいい男なので、割としっかり私の聖書話を聞いてくれるし、疑問があれば鋭いツッコミもする。そこらのなまじっかクリスチャンより余程話した時の満足感は大きい。それこそ、「魂が燃える」。


私はツレといるから、幸せなのだ。
ツレがクリスチャンでなくても、私はツレとの出会いが神の導きによるものだと信じている。
私の気質にツレの気質がうまく嵌合する様は、神の御業という言葉の他には「奇跡の幸運」としか言えない。長所も短所も、嵌合するのだ。だからツレとは分かり合える。

「クリスチャン同士じゃないから分かり合えなくてかわいそう」などと抜かす者は、お言葉通りご自身がクリスチャン同士くっついてもらえばいい。そうして己の狭い世界に閉じ籠ったままでいればいい。私を見下して優越感に浸るのも好きになされよ。
そして、
そういう考えのクリスチャンを世に放つな。
迷惑者は迷惑者同士くっついてくだされば十分だ。




ツレに関することなので、随分熱くなってしまった。


量的に書きすぎてしまったので、
ユダヤ人の救いについての母の答え】についてはまた後日吐き出させてほしい。